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Monday, June 9, 2014

Historical Ruins: The Well of Asaoka Meshidaki 遺跡:浅岡飯たきの井


江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩伊達家の仕度所として藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。万治三年(1660年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したといい伝えられる」とあります。

その隣に、「自由の女神」像がある

首都圏みやぎゆかりの地「浅岡飯たきの井」によると、
  「浅岡」とは伊達家三代目綱宗の側室、亀千代(後の四代綱村)の生母三澤初子こと浅岡の局のこと。
 仙台藩三代目藩主伊達綱宗が隠居し、当時2歳の綱村が四代目藩主となりました。その後見人となった伊達兵部宗勝は家老原田甲斐宗輔と権力の掌握を謀りましたが、伊達一門がこれに反発し、起こったのが伊達騒動です。この対立は土地争いを裁く目的で江戸に召喚された原田甲斐と伊達一門が斬り合いとなり、甲斐と伊達安芸他が死亡するという「寛文事件(寛文十一年・1671年)」に発展しました。
 この事件の後、今度は綱村と家臣らとの対立が深まるなど、伊達騒動は元禄十六年(1703年)に綱村が隠居し、伊達吉村が五代目藩主に就くまで2代にわたり、藩政を不安定にさせることとなります。

Sunday, December 8, 2013

Tojotei House in Matsudo City 松戸市戸定歴史館

JR松戸駅東口を出て突き当りに行って右折します
T字路まで行くと左側にライフケア松戸会堂があり、道路を渡って右折します
少し進むと、左手に広い道が見えて、「松戸市戸定歴史館」のサインが見える

振り返ると、このオブジェが綺麗に見える
戸定みその坂
平成21年10月の天皇皇后両陛下、行幸を記念して千葉大学と松戸市が坂に名前をつけました。「みその」とは帝の苑を意味する「御苑」と庭園の「園」の美称である「美園」にちなんでいます。
戸定が丘歴史公園入り口
戸定が丘歴史公園入り口
戸定邸正面入り口
徳川最後の将軍、慶喜が愛した家
房総の魅力の500選にも選ばれている

最高級の杉の柾目材をふんだんに使った建物
最後の将軍徳川慶喜公所用の甲冑の写真を参考にして作り上げたもの
風呂場
奇跡の木。三種類の木が一体になった
百日紅、松ともうひと種類

四季を通して各種の植物を鑑賞できる

書斎から今でも東京スカイツリーを見ることができる
書斎から富士山や、昔の船場と橋をはっきり見える
戸定邸からの富士山の眺めが関東の富士見百景に選ばれている
現在は、左側にある高層ビルが富士山の半分くらいを遮っている
中庭
丸太の一本杉。こだわりと贅沢を極めた

参考リンク
戸定邸 @松戸市 戸定が丘歴史公園

Sunday, November 10, 2013

Tokyo Slope Gallery - Tomisaka in Bunkyoku 文京区にある富坂

富坂(とみ さか)
春日一丁目と小石川二丁目の間
 「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿のお屋敷のうしろ、さえし町より春日殿町へ下がる坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂という」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
 また、春日町の交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本後の方を東富坂ともいう。とないに多くある坂名の一つである。 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、”アララギ”の編集にあたっていた。 
「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876~1926)
ー郷土愛をはぐぐむ文化財ー
文京区教育委員会 平成12年3月
着物を着ている婦人が歩く富坂

Tokyo Sculpture Gallery - The Statue of Kasugano Tsubone 東京の彫刻ギャラリー - 文京区礫川公園にある春日局像

東京都文京区礫川公園にある春日局
春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である(Wikipedia)。

参考リンク:
日本の銅像ギャラリー:現在の銅像収録数 3746体!(2014年6月現在)

Thursday, September 12, 2013

Red Bricks Street - Shinbashi Akarenga-dori 新橋赤レンガ通り

 この通りを通称「赤レンガ通り」と呼んでいる。
 この「赤レンガ通り」、古くは江戸時代、この通りの左右に大名が軒を並べ、武家屋敷街をなし、「愛宕ノ下大名小路」と呼ばれていました。「文明開化」「汽笛一声新橋を・・・」を背景に、新興産業と共に繁栄してきました。この由緒ある通りを、昭和62年から平成3年にわたり、レンガの由来と歴史をモチーフに、うるおいとふれあいのある通りとして、地元の参加を得て赤レンガ通り大改修を、完成させることができました。
赤レンガ通り
新橋と「忠臣蔵
「忠臣蔵」は、松の廊下刃傷事件から赤穂浪士の吉良邸討入りまでとして、元禄の義挙とし後世に語り継がれている。元禄十四年(1701)3月14日浅野内匠頭は刃傷事件後、即日今の新橋四丁目にあった田村右京大夫屋敷にて切腹となった。そして元禄十五年十二月十五日大石内蔵助ら四六人の吉良邸討入りとなった。この討入り人々に大きな感動を与え、同情をよんだ。浪士一行は引き揚げの途中、今の東新橋にあった仙台藩邸前で異様な姿をとがめられたが、事情が知られかえって感激され粥をふるまわれたという。

新橋赤レンガ通り。味がある、絆がある
芝地区ちぃまっぷ
赤レンガ通りの由来
通りの付近に赤レンガ造りの「清隆館」という勤工場があり、これが名前の由来といわれています。勤工場とはいろいろな店が出店していて、現在の百貨店のようなところでした。
The origin of the name "Aka Renga-dori" (Red bricks Street)
There used to be a brick building called "Seiryu-kan" near the street, and it is said to be the origin of the name. ("Renga" is brick and "Aka" is red in Japanese.) The building had various stores like a present department store.
桜川小学校跡地
1873年(明治6)創立の歴史ある小学校でしたが、1994年(平成6)に御成門小学校へ統合されました。跡地には「福祉プラザさくら川」が建てられ、その緑地には、移設された校名石と少女ブロンズ像(タイトル:希望)が当時の面影を残しています。
The place where Sakuragawa Elementary School existed
Sakuragawa Elementary School was built in 1873 and had a long history until it was integrated into Onarimon Elementary School in 1994. A welfare facility "Fukushi Plaza Sakura-gawa" was built at the site afterwards and the memorial rock with the name of the school and the bronze statue of a girl to remember the old school days were placed in the green area of the premises.
HISAO氏作品。1974.10
赤系色のタイルが敷かれている歩道

Monday, September 9, 2013

Edo Roku Jizo - Dozo Jizo Bosatsu Zazo 大宗寺の江戸六地蔵銅像菩薩坐像

新宿二丁目 大宗寺 銅造地蔵菩薩坐像
菩薩だけの拡大
都重宝 銅像地蔵銅像菩薩坐像の標識。少し後ろは説明
像の高さは267cmで、「江戸六地蔵」の3番目として正徳2年(1712)に作られました。2012年で丁度300年の歴史を持ちます。
 神田鍋町の鋳造師太田駿河守正儀の製作です。像内には小型の銅造地蔵6体をはじめ寄進者名簿などが納入されていたとの事。「江戸六地蔵」各像には寄進者の名前が刻まれていての合計は72,000名以上だったということ。すごいですね。日本の文化は一般庶民が作ってきたんだなあ。
 因みに、江戸六地蔵は品川寺(品川区)・東禅寺(台東区)・真性寺(豊島区)・霊厳寺(江東区)・太宗寺(新宿区)・永代寺(江東区・地蔵は現存しない)だそうです。
 太宗寺の住所は東京都新宿区新宿二丁目9-2です。

Tuesday, July 30, 2013

Edo Castle Outer Moat Ruins 江戸城外堀跡

 外濠(そとぼり)とは、かつての江戸城の堀のうちの外側のものの総称である。かつては水路で江戸城を取り囲み、また内濠や東京湾(江戸湾)ともつながっていた。現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。
 1970年代の飯田濠埋め立てまで、濠を埋めることが度々行われてきたが、現在では都市景観の一つとして保存していこうとする考えが一般である。(Wikipedia)
 まず、分かりやすいのは外堀通りです。以下は、Google Mapsで示されている全体図です。
都道405号線外濠環状線一周
次に、江戸城配置図(外郭)です(Wikipedia)。外曲輪にある門は、山下門、芝口見附、幸橋門、虎ノ門、赤坂門、喰違見附、四谷門、市ヶ谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、浅草橋門、浜大手門とあります。
江戸城配置図(外郭)
一ツ橋に残っている門の石垣の一部

参考リンク
古地図散歩 江戸城外堀を歩く,,,,!(魚拓キャッシュ,,,,

Saturday, July 27, 2013

Hitotsubashi Tokugawake Yashiki 一橋徳川家 屋敷跡

一橋徳川家 屋敷跡
奥の方に一橋が見える

 一橋徳川家 屋敷跡(ひとつばしとくがわけやしきあと)
 所在地 千代田区大手町1-4
 一橋徳川家は、寛保元年(1741)徳川8代将軍吉宗の第4子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
 一橋家・田安家・清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
 当家は、2世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が11代将軍となり、水戸家より入った一橋9世が徳川最後の15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
 敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んだ。
皇居の北端、平川門交差点の近くに、のち徳川15代将軍となる徳川七郎麻呂が養子に入った一橋徳川家の屋敷があった(徳川七郎麻呂 → 一橋慶喜 → 徳川慶喜)。碑がある場所には丸紅本社ビルが建っている。