江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩伊達家の仕度所として藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。万治三年(1660年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したといい伝えられる」とあります。 |
その隣に、「自由の女神」像がある |
首都圏みやぎゆかりの地「浅岡飯たきの井」によると、
「浅岡」とは伊達家三代目綱宗の側室、亀千代(後の四代綱村)の生母三澤初子こと浅岡の局のこと。
仙台藩三代目藩主伊達綱宗が隠居し、当時2歳の綱村が四代目藩主となりました。その後見人となった伊達兵部宗勝は家老原田甲斐宗輔と権力の掌握を謀りましたが、伊達一門がこれに反発し、起こったのが伊達騒動です。この対立は土地争いを裁く目的で江戸に召喚された原田甲斐と伊達一門が斬り合いとなり、甲斐と伊達安芸他が死亡するという「寛文事件(寛文十一年・1671年)」に発展しました。
この事件の後、今度は綱村と家臣らとの対立が深まるなど、伊達騒動は元禄十六年(1703年)に綱村が隠居し、伊達吉村が五代目藩主に就くまで2代にわたり、藩政を不安定にさせることとなります。
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