TOKYO BRIDGE WALK Vol.15によると、「関東大震災の復興事業の一環として、1929年(昭和4年)12月に架橋されている。」さらに、「三吉橋の特徴の一つは、橋を上空から見るとY字型の三つ又になっていることで、銀座方面から三吉橋を渡ると、中央付近から左右に分かれ、左は新富町へ、右へ進むと中央区役所前を通り築地へと繋がっている。」
オフィシャルサイトによると、「安永年間(1772年~1780年)創業。嘉永2年(1849年)現在の新富町に移転し、代々足袋を作って参りました。明治5年(1872年)にこの土地に新富座が、また明治22年(1889年)には木挽町に歌舞伎町座が出来、その後、5代目福太郎の創り出した新富形の足袋が、大野屋の名を広く世に知らすところと なりました。現在も一人ずつ足形を採っております。又、足袋の他にも和装肌着やガーゼのねまき、パジャマ、ハンカチ、湯上りなど独自の色と柄の和装雑貨を製造しております。」
足袋を見て買いたかったが、定休日は土曜・日曜・祭日です。店に行ってから初めて分かりました。
結局、すぐ足を伸ばして、日本人の不滅の「商店街」銀座に行きました。
よく考えると、新富町ってあまりしられていないが、ちょっと歩けば、八丁堀やつきじ、銀座にすぐたどり着きます。
wikipediaによると、「当地域は江戸時代には武家地であった。1868年(明治元年)、築地の外国人居留者を目当てにした新島原遊廓が置かれた。新吉原遊廓の中万字屋弥兵衛、中屋宗四郎の2人が願い出て、新たに借地を賜ったものである。碁盤の目に整地された新島原には、松が枝町、初音町、呉竹町、梅が枝町、千歳町、桜木町、八重咲町、青柳町の町名が付けられ、新吉原、京都の島原、大阪の新町と並ぶ大規模な遊廓となった。 しかし、翌年の大暴風雨で妓楼の中万字屋が吹き倒されたのをはじめ、思い通りの集客が得られず、1871年(明治4年)6月取り払いを命じられ、遊廓は新吉原、根津に移転し、新富町が成立した。隣接の大富町の一部も編入され、町家の続く新富町1丁目から7丁目へと改変された。芸妓、置屋は引き続き新富町に残った。」などなど。意外の歴史を持つ町であることは分かりました。
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