文政十二年(1829)に成立した『御府内備考』には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、 「根岸」 の誤写の可能性がある。明治五年『東京府志料』には、長さ十五間(約27.3メートル)幅二間(約3.6メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、 数値が合致しない。 以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、 日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、 その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。 俗に御隠殿 (寛永寺輪王寺見宮の隠居所) がこの先にあったからといわれるが、 根拠は定かではない。 |
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