Monday, March 30, 2015

Hibiya Park Photo Gallery 日比谷公園写真ギャラリー


日比谷公園 園内ご案内
日比谷公会堂市政会館
【千代田区景観まちづくり重要物件】
昭和4年(1929)、関東大震災復興のシンボルともなった日比谷公会堂が竣工しました。安田善次郎が東京市長だった後藤新平に共鳴し、当時としては巨額の350万円の寄附し、これをもとに「市政調査会(市政会館)」およびそれに併設する公会堂として建設されました。
 建物は指名設計競技で一等となった工学博士佐藤功一氏の設計によるものす。佐藤博士は母校の早稲田大学大隈講堂の設計者としてもしられています。
 ちなみに開場式で、新聞を破いた音が参加者全員に聞こえたといわれています。
 東京都選定歴史的建造物に選定されています。(千代田区観光協会)
日比谷公会堂市政会館
 大正9年(1920)に東京市長に就任後、東京市政のためにの中正独立の調査機関設置を 構想した後藤新平は、大正11年(1922)に東京市政調査会を設立して自ら会長となった。  後藤は、安田財閥・安田善治郎の寄付を受け、日比谷公園内に公会堂を付置した会館を建設 し、会館は調査会が使用し、公会堂は東京市の管理に委ねることとした。これが、現在の市政 会館と日比谷公会堂である。
 建物は、著名な建築家8名による指名設計競技の結果一等に当選した佐藤功一の設計をもと に、本格的なホールを備えたわが国最初の施設として、昭和4年(1929)に竣工した。 全体が茶褐色のタイルで覆われたネオ・ゴシック様式で、建物中央に時計塔がそびえたつ。 一部の窓に使われた黄色のテラコッタが、垂直性を強調したデザインにアクセントをつけてい る。
馬の水飲み
公園開設当時(明治36年)の照明塔と、同じデザインで作られた鋳鉄製の水飲みです。陸上交通の重要な部分をになっていた馬が、水を飲んだと言われています。
Horse Watering Tank
This cast-iron watering tank was made with the same design as the lamp in 1903 when the Park opened. Horses, which were the main means of transportation in those days, drank water here.
(かもめ)。かもめの広場
うかぶ雲、海鳥たちの訪れ、
時の流れを告げる古い貝殻。
1986
作者 淀井敏夫
雲形池
心字池と共に日比谷公園開園当時からの面影を残すドイツ風庭園様式の池です。池内には、はばたく姿の『鶴の噴水』が置かれ、緑に覆われた静けさの中で、心地よい水音を響かせています。冬になると、その広げた翼からいくつものつららが下がり、その姿は公園の冬の風物詩になっています。
As well as Shinji-ike Pond, this is also a German-garden style pond that recalls the time when the Park was opened. From the "Crane Fountain" with its spread wings comes the sound of water, reflected in the quietness of the surrounding greenery. In winter, icicles hang down from the spread wings - a famous sight of the Park in winter.
初冬の雲形池
日比谷野外大音楽堂
日比谷野外音楽堂(ひびややがいおんがくどう、Hibiya Open-Air Concert Hall)は、東京都千代田区の日比谷公園内にある野外音楽堂である。大・小の2つがあり客席数・使用用途も異なっている。
明治時代に小音楽堂が開設された後、大正時代に大音楽堂が開設された。小音楽堂は日本最古の野外音楽堂である。
日比谷公園野外小音楽堂
わが国初の野外音楽堂として1905年(明治38年)に完成した。1923年(大正12年)9月の関東大震災で倒壊したが後日再築された。1983年(昭和58年)には大音楽堂と同時期に改築されて現在に至っている。客席数 1,075。最大の特徴はすべての催事が無料であることであり、基本的には有料公演の貸し出しは行わない。
完成時から軍楽隊の定期演奏会などが行われていた。関東大震災以降の中断期間を経て、1949年(昭和24年)ごろより再開。警視庁音楽隊と東京消防庁音楽隊が演奏を行っている。(wikipedia)
野外大音楽堂の前にある大木
はにわ像
 昭和40年(1965)8月21日に、東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が、姉妹公園として結ばれたことを記念し、特別史跡西都原さいとばる古墳群をはじめ、多数の古墳のある宮崎県より「はにわ」像二体を東京都に贈られました。
 宮崎県には特別史跡西都原古墳群をはじめ たくさんの古墳がありますが  その古い宮崎をしのぶため造られたのがはにわ園で  第18回オリンピック東京大会の聖火リレー起点になった平和台公園のなかにあります。
  昭和40年(1965)8月21日
           宮崎県知事 黒木博
2015年2月4日現在
残念ながら、いたずらによって
左の1体だけになってしまった
豊穣
女性の群像
1953 年 中川為延
ランプと銀杏
有楽門の柱
 日比谷公園は以下の計七つの門があります。
  • 南側:西幸門、中幸門
  • 東側:幸門、日比谷門
  • 東北角:有楽門
  • 北西角:祝田門
  • 西側:霞門
「建造明治三十五年五月」と刻んである
つまり、2013年で丁度110歳!
霞門の柱上にあるランプ
心形池
江戸城の堀にあった日比谷御門の石垣と掘割の水を転用して作られました
外側のモミジ。12月上旬
松本楼
1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた 小坂梅吉が落札し、日比谷松本楼として6月1日にオープンした。当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、1906年秋には東京料理店番付で西の関脇に押し上げられたほどだった。...1945年2月、遂に松本楼が海軍省の将校宿舎となり、終戦後にはGHQ宿舎として接収され、約7年に渡り営業できない日々が続いた。1951年11月にようやく接収が解かれ、松本楼は再スタートを切る。...第二次世界大戦前には、日本に亡命していた中華民国初代総統の孫文やインド独立活動家のラース・ビハーリー・ボース、また2008年には中華人民共和国の胡錦濤国家主席も来店した。文学の面では高村光太郎の智恵子抄をはじめ、夏目漱石、松本清張などの作品にも松本楼が舞台として登場し、時代を超えて公園の象徴的存在の一つであり続けている。(wikipedia)
自由」(乗松巌 1950年)
自由の女神像の彫刻
乗松巖氏の略歴は以下の通りだそうです。
■ヨーロッパをはじめ中近東、ギリシャ、アフリカ、アメリカなど、芸術の源流探求のため、10数回遊学。特にフィルデブラントの 「造形における形式の問題」についての実践研究をすすめた。
■1946年より女子美術大学教授。その他東京芸術大学などの講師として後進のために教鞭をとった。また、1978年より二科会理事を務める。
■愛媛放送賞、愛媛県教育文化賞、よんでん文化振興財団芸術文化賞、愛媛新聞賞等受賞。また、「乗松巖作品集」が愛媛出版文化賞美術部門賞受賞。
■東京の日比谷公園に「自由」像、中央郵便局前に「天使の像」建立などをはじめ、県内でも宇和町文化会館に「二宮敬作」、シーボルトの娘「イネ」像などある。
■松山市内では「船田ミサヲ女史」胸像、「連帯」とレリーフ「生命」、「自由」像、「博愛」像、レリーフ「ノース・ポール」、「三つの泉」、「熟田津の詩」、「コスモス」、「ルミネの泉」、レリーフ「ピンタロス賛歌」、「女(座像)」などの作品を立てている(乗松巖記念館エスパス21-乗松巖の略歴
仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地
 ここは、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。慶長六年(1601年)、政宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。その屋敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される。政宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っている。
 政宗は江戸参勤の折、寛永十三年(1636年)五月、ここで七十年の生涯を閉じた。
The place of death of Date Masamune, the founder of the Sendai Clan
    This is where the Sendai Clan's main Edo (Tokyo) residence, Sotosakurada Kamiyashiki, was located from the period of the founder, Date Masamune, to the third Lord, Date Tsunamune.
    In Keicho 6 (1601), Masamune was given a residence in Edo by the Shogun, Tokugawa Ieyasu. This residence in Sotosakurada was used as his main residence in Edo until Kanbun 1 (1661). The grounds of the residence spanned from the western shore of Shinji Pond to eastern tip of the tennis courts, and from the road alongside Hibiya-bori Moat in the north to the area around the Small Open-Air Concert Hall in the south. The records state that, at this residence, Masamune hosted Tokugawa Ieyasu on three occasions, in addition to both 2nd Shogun Hidetada and 3rd Shogun Iemitsu on four occasions each.
    Masamune's life ended here in May, Kan'ei 13 (1636) at 70 years of age during his stay in Edo under the system of alternating residence.
ルーパロマーナ(ローマの雌狼)
 この彫像は、昭和13年にイタリアから東京市に寄贈されたもので、ローマ建国の大業を成し遂げたロムルス、レムス兄弟の有名な伝説に基づいた像です。
 幼い兄弟は、祖父を殺し王位を奪ったアムリウスによってチベル河に流されましたが、忽然と現れた一匹の牝狼に助けられ、その乳を飲んで成長し、成人した兄弟は祖父の仇を打ちローマを統一したと言われています。
Romulus and Remus and the she-wolf
Romulus and Remus are the traditional founders of Rome in 753 BC and are the twin sons of Mars. Their grandfather's brother ordered a servant to kill them after they were born but he couldn't so he put them in a basket and laid the basket on the Tiber river so they survived. They were nursed by a she-wolf. At 18, they founded their city but Romulus killed Remus and named the city after himself - Rome and he became the first king. The sculpture was a gift from Italy in 1938
statues.vanderkrogt.net
自由の鐘
自由の鐘は一七七六年米國の獨立宣言に際し自由の喜びを天下に告げた歴史的記念物である。しかしこの鐘はその鐘銘の聖句にもある通り「すべての國をその住民に自由を告げろ」自由の象徴である。米國民間の匿名有志はその複製を連合軍総司令官リツジウエイ大将に託し、これを廣く日本國民に贈りたいと申し出た。よってリツジウエイ大将は侍従の擁護者たる新聞を通じ廣く日本國民に贈るとこが最も寄付の趣旨に副うものとして昭和二十七年四月日本新聞協會に寄贈された。日本新聞協會は日比谷の一角に自由の鐘塔を建造してこれを東京都に寄贈し廣く國民と共に自由の鐘の歴史的意義を銘記せんとするものである。
昭和二十七年十月
社団法人日本新聞協會
Dedicated to you, a free citizen in a free land
This reproduction of the famous liberty bell in independence hall, philandelphia, was presented to the people of Japan by a group of American comopanies at the suggestion of general Douglas MacArthur. This presentation was arranged by the honorable John W. Snyder, secretary of the United States Treasurey.
The dimensions and tone are indentical with those of the original liberty bell when it rang out the independence of the America in 1776, becoming thereby a symbol of freedom to not only Americans but all mankind.
アーク灯
 この元アークライト灯は、開演当時の公園で園内には10基設置され、1200燭光(しょくこう)の明るさがあったといわれます。これ以外はガス灯70基が設置されていました。
 右手にある水呑みと同じ鋳鉄製で統一されたデザインとなっており、両方とも明治の記念物として1基づつ園内に残っています。
水飲み
 この水飲みは、日比谷公園開設当時(明治36年)のものです。
鋳鉄(ちゅうてつ)製で重厚なななにも細かな装飾が施され、デザイン的にも見ごたえがあります。
 また、馬も水を飲めるような形に作られており、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時がしのばれます。
烏帽子石
 この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、形が烏帽子(えぼし)(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、人々から烏帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。
 明治時代、道路拡張に伴い石塁が取り壊された際、永く保存するためこの日比谷公園に移されました。
 古くは江戸城外郭 市ケ谷御門の石垣の中にあったもので、形が烏帽子に似ていたことから、烏帽子石と呼ぱれ珍重されていたものであったとの由。明治期に至り、市ヶ谷界隈の道路拡張に伴って、永く保存するため日比谷公園へ移設されたものであるとの由(Foursquare)
日比谷公園 幸門(さいわいもん) Saiwai Gate
ソーラー時計
 この時計は東京都が「文化のデザイン」事業の一環として、「時代の要請にマッチしたもの」との考えて設置しました。
 正面に見える十字形のパネルの中には、太陽電池が入っており、太陽の光を電気に変えて、針を動かしています。
1983.3. 東京都
石貨(せっか)
 この円形の石は、南太平洋ヤップ島(現ミクロネシア連邦)でお金として使われていた石の貨幣で、石貨と呼ばれるものです。石貨は小さいもので直径6cm位から、大きいもので直径3mに達するものまであります。
 一般に、1.直径の大小 2.表面が滑らかか粗いか 3.形のよしあし 4.運搬の難易によって価値が決められました。
 この石貨は直径1.35m短径1.00mのほぼ円形で、大正13年(1924)頃、1000円位で通用したと言われています。
  大正14年(1925)1月 ヤップ島支庁長寄贈
Stone Money
This round stone was used as money in Yap Island (the present Federated States of Micronesia in the South Pacific. Such stone money varies greatly in size from about 6 cm to 3m in diameter.
In general, the value was decided based on four characteristics: 1) diameter, 2) surface texture (smooth or rough), 3) shape, and 4) dificulty of transportation. This stone money is approximatedly circular, measureing 1.35 m accross its longest axis and 1.0 m accross its shortest. It was regarded to be worth about 1,000 yen in 1924. (Contributed by the Mayor of Yap Island Branch Office in January 1925)
三笠山。自由の鐘の近くにある
都心部にある超低山の一つで、
園内の池を造成した際に出た残土や石などで造られた人口の山らしい
さらに、
元々は西側一帯がそうだったらしいのですが、
テニスコートを造成した際に一部削られて今のような形になっているらしい
案内看板によると、
「公園造成時に池などを掘った残土で作られた人工の山で、
その当時は三つの笠を伏せた形に似ていたのでこの名がついた」
大噴水 Fountain
池の直径は20m、主噴水の放水の高さは12m。噴水タイプ:独立型
毎日午前8時から午後9時まで稼動しており、28分間周期で24景を楽しめる
新幸門(しんさいわいもん)。Shin Saiwai Gate
どうやら、よくデモの集合や出発点でもあるよう
石桝(いします)
 これは江戸時代の上水道木管の石桝です。園内の数ヶ所にこれと同じものがあります。
 巨石を視角にくりぬいた豪壮なつくりで内側にその所在地を刻したものもあります。
 この桝は、江戸市内大通りのところどころに設けられ、ここから大名邸などに導水されていました。
松石
 今から3~5千万年前の植物が、水底に運ばれ埋没された後、珪酸質の液がしみこんだものを珪化といいます。
 北九州の炭田では、炭層中に珪化木がふくまれこれを松石また松炭と呼んでいます。
 ここにあるものは、昭和初期、福岡市外亀山炭坑の地下300mのところから長い木のまま発見されたものの一部です。

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